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法門無尽 福井孝典ホームページ

11月

  
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│ FORUM2-7 第52号 11月1日(金) │
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 羽田さんの夏休みの作品が市中学校連合文化祭社会科作品展に出品されます。2日から7日まで、市の歴史博物館でです。9月の展示会でご覧になった方もいらっしゃると思いますが、古い日本の民家について調べ、その模型を造ったのです。その取り組み方の正確さに誰もが感心しました。学校の代表として彼女の作品が選ばれたのは当然という気がしますが、出品されるのは各学年1点ということで、他にも優れた研究はたくさんあったのです。  もう大分前の話になりますが、今学期が始まったばかりの時、クラスで夏休みの自由研究を発表する時間がありました。次々と示される研究のそれぞれの輝きに楽しい思いをしたものです。どんなことが成されたのか順番に披露してみましょう。
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│ 漢字の練習・押し花・年表作り・魚調べ・源義経の研究・坂本龍馬│
│の研究・英文の物語の翻訳・椅子製作・みょうばんの結晶作り・慣用│
│句の研究・肺の模型作り・歴史上の人物調べ・絵画・天気図の研究・│
│いくさの研究・有名な寺の研究・スプレーで描いた絵・蝉の研究・征│
│夷大将軍の研究・絵画・英文日記・宮ケ瀬ダムの研究・新撰組の研究│
│・オリンピックの研究・歴史上の人物調べ・社説の感想・日記・身の│
│回りの環境調べ・京都の研究・英語絵本製作・歴史年表作り・マフラ│
│ーの製作・家の模型・塩の結晶の研究・英文物語の翻訳・英文の訳・│
│英文日記・オリンピックの研究・英語の歌の研究 │
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どれも興味深そうなものばかりでしょう? 新撰組に興味があるという上川響子さんの研究では私がそれまで知らなかった細かな情報がぎっしり書いてあって驚きました。
とにかくこうやって自分の興味ある学習を自主的にやってみることはとても大切だと思います。忙しい中高生には夏休みぐらいしかそういう時間が無さそうなことが気の毒です。
話はがらりと変わりますが、この前の道徳授業は学校の指導計画に従って「愛校心」について行いました。準備されているプリントには先ず「この学校であなたが誇りに思っていることはどんなことだろう」という問いがありました。全員に答えて貰いましたが、圧倒的に多かったのは自然に恵まれているという答えでした。周りに山があり緑に囲まれている、大道渓谷が綺麗でホタルが居る、崖からは化石も発見される、という事等です。その他には、良い先生がたくさんいる、先生が生徒一人一人のことを考えてくれる、というようなことを挙げた生徒が何人かいました。また、体育館が広いことや、バスケ部等の運動部が強いことや、校章がシンプルで良いことを挙げた者もいました。
 「あなたは自分の学校の校風をどのようなものだと考えているか」という問いには、やはり自然に囲まれているのでのびのびとしている、爽やか、すがすがしいというような答えが多くありました。のんびり一日を過ごせる、明るい、活発に勉強や運動に取り組んでいる、静か、不真面目な雰囲気が無い、服装の自由化や自動販売機の設置等新しい試みがある、等の答えもありました。
「学校の伝統を守り、よりよい校風をつくっていくには一人ひとりがどんな努力をすればよいだろうか」という問いには、協力してよりよい学校を作る、きまりを守る、一つの気持ちになって考えそれを実行する、渓谷を掃除する、問題を起こさない、やった方がいいと思ったことは何でも実行する、行事をクラスの一人ひとりが一生懸命やる、設備や卒業生が残してくれたものを大切にする、1年から3年までみんなが仲良く出来るようにする、公共物を大切にする、自分で納得出来る学校生活を送る、自然を大切に思う、学校のことを心から好きになる、卒業生になってもずっと母校のことを好きでいる、学校を大切に思う気持ちを持つ、学校の伝統を考えそれを実行する、等々の答えが出ましたが、「一体大道中の伝統って何?」という質問が出ました。「先生教えて」とも言われましたが、残念ながら私は答えられませんでした。そしてそのことは我ながら大きな問題だと思いました。
校風にしてもそうです。なんとなく良い雰囲気にはなっているけれど、これと言った一本の筋が欠けているような気もします。校風にしろ伝統にしろ取って付けたように飾り立てるものではないと思います。無理にこしらえるとそれこそ無理を生じ、直ぐ崩壊してしまうかもしれません。しかし矢張り、大中と言えば思い出すような優れた何かをもっとみんなで創り上げていくことが必要な気がしました。

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│ FORUM2-7 第53号 11月5日(火) │
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 話し上手は聞き上手という言葉があります。口は一つ耳は二つ、だから話すことの二倍聞けということも言われます。まだまだこれに類する言葉はあると思います。それ程、コミュニケーションにとって相手の話を聞くことは大切だという事です。
例えばビジネスの世界に於いてもそのことは機会あるごとに強調されているようです。セールスをする際、相手の心を捉えていれば上手く行く率が高くなるでしょう。その人が何を思っているのか何を望んでいるのかを知ること、そしてそれに共感を示すこと、こういうことが人の心をつかむ先ず基本的な姿勢です。
 人間関係に関する書物の古典とでも言うべきD・カーネギーの『人を動かす』という本の中でも、「商談には特に秘訣などというものはない……ただ、相手の話に耳を傾けることが大切だ。どんなお世辞にも、これほどの効果はない」という言葉を紹介しています(p103)。人間というのは孤独なもので、自分の心を知って貰えるということは場合によってはどんなことよりも嬉しいことなのです。相手の話をじっくり聞くということは相手に対して何よりものサービスとなり得るのです。
 人の身になる、同情を持つ、関心を寄せる、聞き手にまわる、これらを人間関係の先ず基本に置き、更には人をほめ、重要感を持たせ期待をかけていく、更にこれに礼儀とか笑顔とか名前を覚えるとか相槌とかユーモアとか様々な要素を加え、現代の最も典型的な人間関係論が成り立っていると思われます。一人一人が自立した、多様な価値観を前提とする民主主義社会、或いは需要と供給で成り立つ商品世界に於いて完成された、最も求められる人間関係なのだと思います。
この人間関係論は社交やビジネスの上だけではなく、教育の現場でも有効です。寧ろここ十年ほどずっと教師に求められ続けて来たのは主にこのことだったのではないかとさえ私には感じられています。人権意識の高まりということも勿論あります。相手の気持ちに立ち、良い面を認め、励まして行く。これは体罰批判にもいじめ克服にも繋がる考え方です。教師の世間知らず独り善がりという批判も、我々がこういうやり方を忘れがちだということも理由の一つになっているのかもしれません。
そういうことでか、最近の研修会などではそれに関するものが大変多いのです。カウンセリングの必要性、そのやり方というのもその一つです。
これはお母さん方にとっても役に立つやり方かもしれません。その要点は、子供の話をじっくり聞いてあげることです。そうすることによって子供の心は落ち着き、開かれていくのです。余計な説教や反論は一切加えないこと、子供の立場に立って話を聞くことです。
こういうカウンセリングのやり方は確かに有効な場合も多く、特に自閉的な傾向の子供には効果も高いと思います。しかし教育現場にとって厄介なのは教師の殆どの時間は集団を相手にしているということと、何かしらの指導を前提としている場合が多いということです。そうした事情が単なるこうしたやり方では間に合わないということを引き起こします。
例えばこうです。ある生徒が問題行動を起こしたとします。それで教師はこう質問します。「どうしてそんなことするんだろう?」生徒は答えます。「ムカつくからよ」「何故?」「××のこんな所が気に入らない」「××のこういう所が気に入らないんだね」「あゝ」「気に入らないとそういう行動起こすの?」「ムカついてるから」「でも、だからといってそういうことするのはまずいんじゃない?」「そうかもしれないけれど、××の問題解決しなけりゃ納まらないよ」「そうだね、じゃ××の問題が解決すれば納まるんだね?」「多分」。そして今度は××に対するカウンセリングが始まります。××が非を認めればそれで一件落着するかもしれませんが、彼とは全く別の主張をしますと事態はこじれます。そしてそういう場合の方が多いのです。何故ならそれぞれの人間には別の利害と状況がある場合が多いからです。教師は両方の立場を公平に尊重しようとします。その結果はあっちが悪いこっちが悪いという水掛け論に陥って解決不能という事態になり得るのです。ましてそれが数年前の本校のように、教師にすごんだり脅したりするのが平気だったような時には、問題行動を起こしてもへっちゃらという所にまで発展して行きかねません。
こうした従来の方法ではなく、もう少し違った心理学的方法によるカウンセリングのやり方が必要な気がします。先日、本校でもカウンセリングの仕方を職員研修しました。ビデオでやり方を見たり、心理判定員の方のお話を聞いたりしましたが、それは前述の方法でした。私は少し聞き知っていたアドラー心理学についてその方の意見を聞いてみました。しかし詳しいお答えはありませんでした。私はその心理学によるやり方が、かなり学校現場では有効であるような気がしているのです。            (つづく)


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 │FORUM2-7 第54号 11月6日(水) │
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 私はアドラー心理学を体系的に学習した訳ではありません。その名前を最初に聞いたのは或る中学校で開かれた生徒指導の公開研究会ででした。その記念講演として精神科医師で日本アドラー心理学会会長の野田俊作氏の講演があったのです。そこで野田氏は従来の心理学によるカウンセリングを批判し学校で行われている生徒指導のやり方の誤りを痛烈に指摘したのでした。そこまでであったら現在よくある現象に過ぎません。しかし氏の講演は彼の心理学の特徴通り、別の新しいやり方を明確に提示していました。それはとても参考になるものでした。

 カウンセラー(教師)の問いは「なぜ?」と過去に焦点を当てるのではなく、「どうすれば?」と未来に焦点を当てなければならないと氏は主張します。「どうすればこの問題を解決できるだろうか?」「今何をすればいいか?」このことこそが問題にすべきことであって、反省というものはそれを知る為の資料の一つに過ぎないのです。
不適切な行動パターンから脱却する為には、同じ状況でどうすればもっと適切に行動出来るかを知り、練習して身に付けなければならないのです。ですから教師は「どうすれば?」という問いを自分自身と子供達に問い続けなければならないのです。
それは人間として飽くまでも同等であり相互の信頼に基づいた共同体組織の同じ構成員であるという立場で成されなければなりません。「きっとできる」という信頼の上に子供達を一人前の人間として扱い、建設的に生きる力を勇気づけることです。建設的な行動には、例えば授業を静かに受けるとか清掃を真面目に行うといったことが含まれます。そういった「あたりまえ」のことが共同体の構成員にとってはお互いに「ありがたい」ことなのです。「適切な行動をすれば無視され、不適切な行動をすれば注目される」という構造が諸悪の根元だと氏は主張します。
適切な行動とは、共同体に対して破壊的でなく、かつ、自分自身あるいは共同体に対して建設的な行動のことです。不適切な行動というのは共同体を破壊するような行動、言い換えれば実質的な迷惑をかける行動です。
不適切な行動から脱却するには、社会的責任としてのルールをみんなの納得で作ったり、オープンカウンセリングをしたりと色々手を尽くさなければなりません。それも「自分のことが好きだ」「この世界は良い所だ」「この世界には自分の役割がある」「問題を解決するのは楽しい」「他者に貢献することは嬉しい」と感じられるように援助すべきだと氏は主張します。
いずれにせよ子供には自分の人生の課題に自分で対処する能力があると信じること、ここが出発点です。自分の人生の課題は自分の責任で解決すること、これが子供達の学ばなければならない最も重要な課題の一つなのです。その為には、行動の結末を子供自身が体験し、或いは予測し、その行動を続けるかどうか子供の判断にゆだねるという方法を氏は提唱します。結末の取り方には自然の結末・社会的結末・論理的結末というものを挙げています。
なんでも教師の課題であると、かたっぱしから抱え込むのは過保護・過干渉となり、子供達の解決能力を奪う結果になる。どんな場合に教師は子供達の解決に協力すべきか見定めることが大切だと主張しています。教師がものを語る時も、無人称で語るのではなく、「私はこう感じている」「私の意見はこうだ」と言うべきであるとしています。(参考図書『学校教育に生かすアドラー心理学/クラスはよみがえる』野田俊作・荻昌子著)
こうした考え方に立脚すれば、先回カウンセリングの例で出したような場合に於いても、問題行動を処理する仕方や、その生徒に対する指導の方法は相当違ったものになる筈です。

野田先生の講演を聞いた時、アドラーという学者は戦前の人であったのに、随分現代的な発想をする人だったんだなあという思いがしました。共同体(社会)というものがどんなに人間にとって大きな存在であるかを常に念頭に置きながら、個人の可能性と尊厳を最大限に尊重し、責任を取ることの重要性をはっきり認識しているのです。現代のアメリカで大きな影響力を持っているということですが、それも頷ける気がしました。人間はどういう時に幸福を感じるか? 学校教育の目標はどうあるべきか?(→尊敬・責任・社会性・生活力) 教師の役割は何か? 民主的秩序をどう作るか? ……こういう問いに野田氏はきっぱりと答えを出していました。聞いてみればあたりまえという所もありましたが、教育や民主主義が政治的宣伝に利用され過ぎた結果、混乱気味の現代日本に貴重な示唆を与える学説だと私は思いました。


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 │FORUM2-7 第55号 11月7日(木) │
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 現在、社会科は第6章の「ヨーロッパの近代化と世界」に入りました。この章は「市民革命」という節から始まります。イギリスの清教徒革命・名誉革命から始まってアメリカの独立革命、フランス革命そしてナポレオンの登場までをこの単元で学習します。諸外国の建国記念日や国歌、国旗の制定はこの市民革命を起源としている場合が殆どで、現代を理解する上でここの所は頗る重要な所です。
 新しい世界を求める民衆のエネルギーが澎湃として沸き上がり、その坩堝の中で今に繋がる多くの思想や情熱が生まれてきた時期です。日本でこれに相当するのは幕末から明治へかけての動きでしょう。長州や薩摩等の若い志士達の群像が目に浮かびます。革命というのは矢張り若い力が噴出する時なのでしょう。西欧に於いてもこの時期、多くの青年や女性が活躍しました。教科書にフランスの女性革命家メリクールの演説も載っていました。ベートーベン、バルザック、ゲーテが登場したのもこの頃で、それはハイネ、ショパン、ドラクロワ等のロマン主義へと発展して行くのです。近代の夜明け、青春時代と呼べる時であったような気がします。
又この頃のイギリスやフランスはディケンズやヴィクトル・ユゴーの描く世界でもあります。古い王族や貴族階級、勃興する資本家階級、大勢力としての農民、そして貧しい労働者階級という様々な人間模様がまるで図に描いたように鮮明に存在し、あらゆる人間が自分を主張し始める。新旧の階級の対立する利害、そのぶつかり合いの中で引き起こされる無秩序・混沌、渦巻く憎悪と愛情。そして生み出される新しい秩序。そうした流れはまっすぐ現代世界の文化へと繋がっているのだと思います。
そういうことで、なんだかとても懐かしく心ときめくものもあり、しかもしっかり学習しなければならない単元であります。
ユゴーと言えば思い出すのは「レ・ミゼラブル」で、それはミュージカルとなって世界中でロングランを続けています。私は都合3回観ました。最初は十年前、日本の帝劇での初演を妻と二人で観ました。ジャンバルジャンは滝田栄でジャベールが鹿賀丈史でした。
2回目は、サウジからの休暇旅行の際、家族で観たロンドンのパレス劇場での公演です。前にもお話したことがあると思いますが、サウジアラビアでは映画館とか劇場とかコンサートホールとかという種類のものは存在せず、そういうものに接する機会は普通ではあり得ないのです。その息苦しさから逃れるように、欧米や日本から来ている者達は休暇になると一斉に外国へ飛び立ちます。私も、禁止された酒を求めるように人間的な文化や芸術を渇望していました。感受性を豊かに育てねばならない年頃の娘二人を抱え、その思いは余計に募っていたのでした。
ヨーロッパへ出た最初の夏、どうしてもロンドンでミュージカルを観たいと思っていました。人気のある作品の切符はとっくに売り切れていてなかなか手に入りません。しかしとうとう Leicester Sq.のチケットブースの近くにたむろしている人から手に入れ、屋上から見下ろすような席で家族並んで観たのでした。
3回目はなんとサウジでです。これはオランダ系のコンチネンタルスクールという学校の特別公演があったのです。中高生達があのミュージカルをそのまま熱演していました。先生方や親御さん達の熱い熱い思いを感じました。終了した時のキャスト・スタッフをはじめとする関係者の感激の仕方が忘れられません。
話が「市民革命」から「レ・ミゼラブル」に変わってしまい、そのミュージカルをご覧になっていない方にはすごい飛躍を感じていらっしゃるかもしれませんが、両者は極めて関係があるのです。舞台にはパリの貧民街が描かれ、アンダーワールドの象徴としての地下水道が登場します。更には巨大なバリケードが築き上げられ赤旗が翻るのです。そして若者達は、「歌声が聞こえるか? 二度と奴隷にならぬという、怒れる民衆の歌声が。君たちのハートの鼓動が太鼓のビートに響く時、明日に向かう新しい人生が始まる……」と歌います。当時の闘争的な雰囲気を見事に再現しているのです。
しかし私が最も感動するのは矢張りジャンバルジャンの気持ちです。コゼットやマリウスに寄せる愛情。自分自身の誠実さにこだわる気持ち。……死を前に彼は回想します。あこぎなテナルディエの宿屋からコゼットを助け出した時、ジャンバルジャンに手を引かれる小さなコゼットには彼の他に何も無かった。ただ彼だけを信じて手を握っていた。その時彼は、一生この娘を守ろうと思った。……あの頃が懐かしい、と思うのです。結婚したコゼットに神の祝福を願い、自分の役目は終わったと安心して死につくのです。
 親の気持ちはいつの時代も同じなのかもしれません。

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│ FORUM2-7 第56号 11月13日(水) │
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 昼食のある時は毎日放送している「大道中 昼の放送」では、タイトルバックや画面と画面の繋ぎに、放送室から眺められる風景を流しています。向かい側は崖になっていて木々がいっぱい茂っているのです。これまでは大体、重なり合った緑の葉が微風に揺れている風景か、たまに梢に止まる鳥の姿の画像でした。所が最近はそれがちょっと変わって来ました。放送委員は同じ所にカメラを向けているのですが、葉の色が赤く黄色く色付いているのです。それに日の光が加わって鮮やかな色を輝かせたりすると、かなり出来上がった画面となります。
私は通勤に横浜横須賀道路を使う事が多いのですが、この道路は三浦半島の一番山深い所を縦断しているだけに、山の景色の移り変わりが通行する人の五感に飛び込んできます。我が家の近くの横須賀インターは最初山中インターと呼ばれていました。その名の通りその辺りは360度に渡って山奥の景色が展開しています。朝の通勤時間は、のんびりした気持ちで通過する訳ではありませんが、一瞬、目に飛び込む季節の景色に心が洗われるようです。特に、毎日変わって行く晩秋の山姿を観察出来る今頃の時期は何時にも増して面白いです。色付く山と射し込む日光は心を豊かにさせてくれるような気がします。
私の若い時期(大学生の頃から極最近まで)、一番好きな時はこの、秋から冬に向かおうという時でした。冷たい冬の風が吹き始め木々の葉が一斉に舞い落ちるような頃です。いや、本当は冬が好きだったのでしょう。さあ冬が来た、私の季節だという感じです。大学受験の時にそういう一年のサイクルが出来てしまったのか、夏にじっと山籠もりのようにして蓄えた力がこの時期に頭をもたげてくるというパターンが得意でした。逆にみんなが浮かれるような春は苦手でした。春が大好きという妻とは対照的です。来るべき冬に備えるというように何かじっと堪えていました。余りに受験生活というものが大きく影響していたのかもしれません。しかし実際重要なことはこの時期に起きることが多かったのです。大学四年の時、自分の運命を変えるような出来事が起こりましたが、それもキャンパスを銀杏とプラタナスの枯葉が埋めるような時の事でした。
そういう思い出もあって、ずっと後までこの冷たい風にコートの襟を立てるような季節が好きだったのです。最近はそういう、運命を賭けるような勝負の時などはありません。その為ということもないでしょうが、どんな季節もそれぞれに素晴らしいと心から感じています。しかし私の心を長く支配してきた秋から冬にかけての思いは消えることなく残っています。
例によって話は余談から余談へと流れて行っていますが、私の好きな季節の感覚はもう少し後の時期のような気もします。それともここ二十年間のうちに温暖化が進み、なんだか世の中が暖かくなって来たのでしょうか。それともひょっとして年のせいで感覚が鈍感になって寒さを感じなくなってしまったのでしょうか。いや十一月というのは暖かい日と寒い日がかわりばんこにやってきて次第にしかも急速に冬に向かって行く時なのでしょう。
今週末の土曜日、落ち葉を集めて、焼き芋を作る事になっています。
 菜園に植えたさつま芋の収穫祭ということで学年全部で行います。学年評議会が計画し主催して実施します。当番を決めて水やり等をしてきたのですが、思った程には育ちませんでした。それで不足分は買い足して行います。「水遊びと素麺を食べる納涼懇親会」が水不足で出来ませんでしたので、お母さん方も交えて盛大にやろうかとも考えておりましたが、今回は生徒だけということに学年で決まりましたので、そういうことで行います。焼き上がるまでお友達と談笑していようということになっているようですが、本当にそうなるのかやゝ疑問でもあります。
 第一、落ち葉があるのでしょうか? まあ、新聞紙とか色々考えているようでなんとかなるでしょう。
落ち葉と言えば、思い出すのは「第三の男」のラストシーンです。あの映画は本当によく出来た映画だと思っています。あのラストの中央墓地の出口のシーン、最高です。私がヨーロッパで一番気に入った都市はウイーンです。

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│ FORUM2-7 第57号 11月16日(土) │
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 今回は「きまり」ということについて考えてみたいと思います。何故、きまりというものが存在するのか? 守らねばならないのか? 判りきったことであるようですが、今一度ゆっくり考えてみたいという気になりました。学校に於けるきまりを考える為です。
紀元前18世紀、バビロニアで出来たハンムラビ法典のことが教科書に載っています。又その成り立ちを旧約聖書で教えられる紀元前13世紀の「モーゼの十戒」を私達は知っています。それらが直ぐに思いつく現存する最古の「きまり」です。
ハンムラビ法典の前文には「正義を国の中に輝かせる為、悪者を滅亡させる為、強者が弱者を虐待しないようにする為、寡婦や孤児が食いものにされない為、平民がいばりくさった悪徳役人から被害を受けない為に」という、この法典発布の目的が書かれているようです。しかしよく調べてみると、この法典の役割は逆に、征服したアムル族で構成されるアウフィルム(王族・貴族)の支配を貫徹するということでした。
「十戒」は「わたしの他に何者をも神としてはならない」という第一原理から始まる、神が与えた啓示です。極めて上意下達な形を取っていますが、モーゼと共に旅立ったイスラエルの12部族がシャローム(平和)を保つ為の意思統一と盟約という性格を色濃く持っています。
法律と「きまり」では若干使われ方が違いますが、どちらもこの両者の性格を相持っています。つまり、1.支配勢力の意志貫徹と2.構成員の共通利益の擁護です。しかしいずれであっても「きまり」というものは強い強制力を持って拘束する性質のあるものであることに変わりはありません。これは国家というものの性格とも似ています。しかし人類の歴史に於いては、民主主義の発展に伴い、国家も法律も今挙げた第2の性格⇒構成員の共通利益の擁護の側面が強くなってきているのです。
それではそろそろ学校に於ける「きまり」ということについて考えてみましょう。学校というものは目的を持って作られた機関であり、それを構成するのは目的を持った人々です。その目的とは言わずと知れた「教育」です。教育の目標というものは時代と共に多少変化していきますが、現在では先ず「教育基本法」にそれは明記されており、各学校には各学校の教育目標や教育方針というものがあります。本校の教育方針は「三愛一好の教育」であり、それに基づいた四つの目標があります。
学校の「きまり」はこうした教育目標を達成する為に最も適当なものであるべきです。先述の第1の性格⇒支配勢力の意志貫徹という要素は殆ど問題にならないと思います。飽くまでも、教育を求める主に生徒達の共通利益を擁護する為のものだと思います。生徒達の共通利益とは例えば、授業を妨害されずに受けられるとか教室環境を乱されないとかということ等です。そしてこれらは「きまり」として絶対のものである必要があります。「きまり」というのは守っても良いし破っても良いというものであるべきではありません。学校或いは学年や学級を構成する者達の総意として、よく討議した上で決定された必ず守るべきものです。それを破るということは他の者の利益を侵害するので「きまり」となったのです。「十戒」の「殺すな」「盗むな」が絶対的なのと同様に絶対的な遵守義務が必要とされる事柄です。集団の共通利益を全員が必ず守るということが民主的に確立することで民主的秩序が成立するのです。
逆に言えば、一部の趣味に属する事柄とか利害や意見がばらばらな事柄、個人的な事柄、守っても守らなくても人に迷惑がかからないような事柄は「きまり」にすべきではないと思います。江戸時代の犬公方による「生類憐れみの令」とか、身分制度を固定化する為に些末な日常生活の暮らし方まで定めた「慶安の御触書」等はそういう意味でも失笑と溜め息を生むのです。
まして現代の学校は価値観が多様化した情報化時代の中にあり、何よりも生徒一人一人の自立した判断力・生活力・責任感等を育成する方向が求められているのです。何事も盲目的にみんなと同じにという時代は終わりを告げたのです。一人一人が自分で判断し、違った個性が協力していくのです。一人一人の違いを認めること。それが出来ないと異質排除のいじめが起きたりするのです。そしてお互いを尊重すること。その上で集団生活を守る上での絶対必要な「きまり」を決め、お互いが必ず守ること。守れない者にはそれなりの責任がかかってくること。こういうことを学ぶことが大切なのではないでしょうか。こういう民主的秩序確立の為の「きまり」が必要となってくるのだと思います。しかもそれが出来るだけ少なくて済めばそれに越したことは無いと考えます。誰もが納得する民主的ルールとしての「きまり」は、生徒達のより良い自己実現に向けての環境作りに役立つものでなくてはなりません。私はこのように考えておりますが、皆さんのお考えはいかがでしょうか?


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│FORUM2-7 第58号 11月21日(木) │
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 19日に関内ホールで表彰式があり、20年勤続ということで本校では伊藤先生と私が表彰されました。そこへ出かける前、そのことを何処からか聞きつけた生徒達が「おめでとう」を言ってくれました。私自身、本当にめでたいという気分になっています。戴いた表彰状を家の食卓に飾って嬉しそうにしていますと、娘が「ただ20年働いたというだけでしょう?」と冷やかしました。実際その通りで、誰もがしているように、家族を養う為に働き続けてきたということなのですが、それでも20年というのは結構長く、色々苦労もあり、表彰されるということは矢張り嬉しいものです。同じ年に働き始めた人達の名前が名簿に載っているのを見つけ、あゝあの人達も頑張っているのだなと懐かしい思いがしました。
20年前、同じ場所で(市民ホールという名のもっと古い建物でしたが)辞令を受け取った時のことを思い出します。
 私は大学では教育学部の英語英文学科に通っていましたので、英語の教師になるのは最もオーソドックスな道のようでもありました。しかし実際はその卒業生の多数が教職に進む訳でもなく、私自身も在学中から絶対教師になろうという風には思っていなかったのです。教師でもやろうか、教師しかできない、ということでなった教師を「デモシカ教師」と言って真面目な教育学部学生は軽蔑していたものですが、それ程消極的な姿勢ではありませんでしたが、かと言って絶対教師という程積極的でもなかったのです。
ただ職業を選ぶ基準として、世の中の為になる職業に就きたいという希望はありました。当時、アメリカはベトナムの戦争でごたごたしていましたし日本の企業も公害問題やら汚職の問題やらで余り良いイメージはありませんでした。特に人がどう言うということではありませんでしたが、自分自身が納得する、世の中の為になる職業ということにはこだわりがあったのです。その点、学校の先生なら絶対大丈夫だと思ったのでした。
そうは言ってもそれ程気負っていた訳ではなく、仕事を一つ一つこなしていくだけで精一杯という日々が続いたのです。別に教師という仕事が、ずば抜けて人や世の為になるということでもなく、殆どの仕事がそれなりに人や世の為になっているのです。又、子の親となれば誰もが真剣にその子の教育について考えざるを得ません。そうした真面目に働く人々や親達の思いと別の所に教育があるのではなく、寧ろそういう人達の気持ちと同じ基盤に立って学校教育はあるのだろうとずっと思っていました。
 教師という職業は専門職であるという認識はありました。ですから必要な知識や技量は身に付けていなければなりませんし、態度振る舞いにも気を付けなければならないとは思っていました。まあ役人の一員と言えばそうなんですが、役得とか権益がある訳でもなく地味な仕事です。教育という仕事に誇りと自信を持って、コツコツ子供達の為に頑張るという仕事です。
しかしここへ来て思っていることがあります。それは、良い仕事をしたいという思いから私はずっと、気持ちの上で言わば闘い続けてきたのではないかという反省です。仕事に真剣であればそういう気持ちが必要な場合も当然多くなると思います。趣味を含め自分の生活スタイルを作り、家族を守り子供を育てるのも闘いの一つであったと言えないこともありません。確かにそれらはやりがいのある闘いでした。しかし異国の生活から帰り、自分の子供も大きくなり、この仕事を始めて20年経った今、一番思っていることは、自分を取り巻く春夏秋冬、大地、海、食べ物その他一切のものに対する感謝とこの地球に生きていることの喜びです。自分の子も他人の子も全く同じ若い生命、自分自身も風と同じ大きな営みの一部という確かな発見です。何かの為に教育するのではなく、教育は人間の生きる生き方そのものと共にあるものではないかという感覚です。
最近、生涯教育ということがよく言われています。人間は死ぬまで、自己実現に向けて自分を教育していく生き物だからかもしれません。勉強と言っても必ずしも机に向かっているものとは限りません。色々な場で色々な形の勉強があります。中学時代はその基礎を学習しているに過ぎません。しかし大人になる為のとても大事な一時期です。この大事な時期の、そんなに大事な、人間の根本にまで関わる事柄のお手伝いが出来るということは、我ながら良い仕事につけたと思っています。自分の行いが誰かの役に立っていると思えることは嬉しいものです。本当に役に立っているのか自問することも多いのですが。


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│ FORUM2-7 第59号 11月25日(月) │
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 良い本を紹介します。それは現在460万部売ったというベストセラーの本「脳内革命」です。著者は田園都市厚生病院長の春山茂雄という医者で最近はマスコミにもしばしば登場しています。大学で西洋医学を学んだ後、従来から効き目を認めていた東洋医学を活かした医療を進めている人です。東洋医学はご承知のように自己快癒力を引き出すことを主眼とした方法を取りますが、それはつまる所βーエンドルフィン等の「脳内モルヒネ」と呼ばれるホルモンを分泌させ作用することを目的としているということに着目したのです。快楽ホルモンβーエンドルフィンの効力は麻薬のモルヒネの5~6倍はあるという強力なもので、逆にストレス時に分泌されるアドレナリン・ノルアドレナリン系のホルモンは活性酸素を発生し、それが体内に猛毒を作ることがあります。「脳内モルヒネ」は血管の収縮を防ぎ、血液をサラサラと流れるようにする効果があり、免疫細胞を活性化することによって抵抗力を付け、脳細胞の若さを保つことによって記憶力や忍耐力、創造力を向上させる。又その時脳からはα波が出、脳神経の伝達能力は活性化されるというのです。
 それで生活に於いては1.脳内モルヒネの成分である良質のタンパク質(アミノ酸)を食べる、2.血管の目詰まりを防ぐような食事・運動をする、3.活性酸素を中和するような食事をし、運動の仕方に気を付ける、事等を提唱します。そして瞑想・マッサージ・ストレッチ・ウオーキング等の各種のメディカル・セラピを具体的に紹介します。
 しかしこの本の一番の主題は、脳内モルヒネを分泌するような心のあり方を説明する所にあります。つまり著者が第一の要約で述べているように《「心で考えること」は抽象的な観念などではなく、きちんと物質化されて「体に作用する」》ということなのです。どういう場合に脳内モルヒネが出るか? ―それはプラス発想をした時です。それは出来事そのものよりも、出来事をその人がどうとらえるか、その見方・考え方によって影響されるのです。寧ろマイナスの状態でプラス発想出来ることが大切なのだということです。
人間は快感原則に忠実に生きている動物で、脳内モルヒネを出すことのみをとことん追いかけているのだそうです。何が快感であるのか、言い換えれば自己実現とは何であるのかは一人ひとり異なっている場合がありますが、その大きな方向性は既に決定されていると著者は主張するのです。
人間の脳は、原脳(爬虫類脳)・原始哺乳類脳(犬猫脳)・新哺乳類脳(人間脳)の三つが重なっていてそれをAー10神経が縦断しているという構造になっています。それぞれが基本欲求を持っていて充足されれば抑制物質が働き、上の段階へ高まって行くのだそうですが、人間脳の前頭連合野の機能(思考・創造性)に基づいて脳内モルヒネが分泌される時にかぎって負のフィードバックが働かない。つまり無限に喜びを感じ続けるということです。 さてその人間脳と呼ばれる大脳新皮質は右脳と左脳に別れていて、この両者を脳梁という神経の束で連結しているのです。左脳は感情も含めて自分が生まれてから一代で取り込んだ情報が中心の、損得と快不快で機能する「自分脳」。右脳は先祖から受け継いだ遺伝子を持った「先祖脳」で心の拠り所となっている部分だということです。遺伝子に刻まれた情報はざっと五百万年分あり、右脳はそれを詰め込んで基本ソフトにしている人類の知恵のエッセンスのようなものです。右脳は左脳の十万倍の情報蓄積があり、左脳の重要事項は右脳の遺伝子に書き込まれ、右脳は過去にそうやって情報を蓄積してきたのです。そしてその遺伝子がそのパワーを発揮するのは明らかに一つの方向性に従っているということです。つまり自己実現の方向性です。それは宇宙の意志という風にも考えられます。物質世界の方向性と心の世界の方向性はこうして同一のものとなってくるのです。こうなってくるとこれはもう仏の「法」とか創造主の命令とかということにかなり接近したものになって来るような気がします。
以前から考えていた事項があります。それは二学期初頭皆さんにも付き合っていただいた例の新聞記事から始まった「生き方の探求」についてです。その結論として、様々な意匠や事実に関して一つ一つ良い方向を見つけだす基盤として「生活から出てくる知恵のような考え方や感情」「人間の積み上げてきた文化全体」ということを挙げました。しかしこれだけでは未だ心許ない気がしていました。右脳に結集した情報、人類総体更にはそれを越えるものの意志、ということを加える必要があるような気がします。そういう無意識の知慧、神の声に似たもの、それも判断の奥底に厳として存在しているのでしょう。そしてそれに従って行動する時、人間は喜びと健康を得られる。そのように出来ているということ。これは一つの大発見かもしれません。
参考図書『脳内革命 脳から出るホルモンが生き方を変える』
       『脳内革命2 この実践法が脳と体を生き生きさせる』春山茂雄著


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│FORUM2-7 第60号11月30日(土) │
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 いやあ、今紅葉が真っ盛りですねえ! 学校の周りもすっかり色付いて綺麗です。試験監督をしながら窓の外のそういう景色を眺めていました。子供達は勿論それ所ではなかったんですが……。
さて先回、良い本としてご紹介しました「脳内革命」ですが、新しく脚光を浴びると必ずそうであるように、激しい批判も起きているようです。例えば西田健という人は『脳内革命の正しい読み方』という本で、次のように書いています。「春山茂雄と船井幸雄。この両者は、恐怖と救済を繰り返し訴える“宗教的洗脳のパターン”を利用した一卵性双生児(p106)」「『脳内革命』の大ブームは、日本企業オカルト化が末期症状であることを証明したに過ぎない。300万人の“会社教の信者”がいるということを(p126)」「かれらは人の心の弱さに付け込んで、言葉巧みに甘美な“麻薬”を売りつけていく。合法的な脳内モルヒネという麻薬を、宗教という麻薬を、金持ちという麻薬を。我々は早く麻薬中毒から抜け出さなければならない。日本中が中毒患者になる前に(p159)。」
 これは大変なことになりました。こんな本を私は紹介してしまったのでしょうか? 西田氏がこれ程怒っているのは春山氏とその仲間が「トータル・ヘルスケア・エンジニアリング」その他で莫大な利潤を上げつつあるということが大きく原因しているのです。しかし一読者としてはそんな企業活動には元よりなんの関係もありませんし、自分が「会社教信者」なぞと思ったこともありません。彼の病院に高いお金を出して行こうとも思っていません。ただ彼の本の中の少なからぬ部分に成程と思う所があり、実生活でもそのアドバイスを役に立てゝ行こうと思った次第であります。
 レッテル貼りと決めつけ、特に現在はオーム真理教というカルト教団が問題になったばかりですので、それと同じだという当てこすり、こういうやり方は良くありません。しかしこうした安易な論難は日本では割とお馴染みで多く見られる論法です。これが「ねたみ意識」を背景にして、マスコミ等の大量宣伝と結びついたりすると極めて悪質な暴力にもなりかねません。これに限らず、この種の方法は今後相当深刻な現代の問題点として近い将来必ず論議されると私は感じています。
 どのような意見に対しても最初から悪意や偏見を持つのではなく、何か役に立つことはないか新しい発見はないかという態度で接するのが良いと思います。大脳生理学についてもまだまだ解明されていないことが多いようです。しかしどのような学問も仮説というものを立て、それに基いて発展していくのです。最初から絶対真理であるとか真理でないなぞとどうして言えるのでしょう? 神や仏の名を口にしただけでオカルト云々とわめき出すのはその人の教養の有り様をさらけだしているようにしか思えません。
私は医者ではないので、ホルモンや脳構造について確かなことは判りません。アドレナリン・ノルアドレナリン系のホルモンも有効な場合があるという指摘も判ります。例えば、何か勝負事のような大舞台を決めようとする時、血の気がすうっと引いて行って頭が覚醒したような気分になることがあります。これなどはこのホルモンが上手く緊張状態を作ってくれた時なのでしょう。適度なストレスは却って物事を上手く進める役に立つ事もあると思います。だがこんなことは多分春山氏も判っていることでしょう。
 又、右脳が本当に「先祖脳」と言われる働きをしているのかどうかも私は知りません。しかし人間の行動や感情が決定される時、自分ではどうしようもない生物的社会的情報や更には親の遺伝子の存在等を感ぜざるを得ないこともしばしばあります。年を取れば取るほどそうです。自分の子供を見るに付けてもそういう気持ちになります。親から見れば子供は自分の生まれ変わりのような存在です。勿論それぞれ別個の人格であり、本人自身の努力による後天的なものが極めて大きいということは事実であります。だから教育とか学習ということが重要なのです。しかし本人が望む望まぬに関係無く、自分を越えて自分を決定しているものがあるような気がします。それを知って更に自分を大きく豊かにしていくことも必要な気がします。学習はその為にもあるのではないでしょうか。
 「(春山氏の)目つきは詐欺師一般に良く似ている。口のあたりも同様。この相は嘘をつかせると切りがないタイプ(p163)」ということまで本に書かれると、それ程言うのなら本当に悪人なのかもしれないなあいう気にもなってきます。私達は何度もこの種のインチキに出会っているからです。しかし今そこまで言うのは矢張り悪罵や中傷の類いだと思うのです。



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